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第三話 生意気な年下後輩・瀬名伊織②

Author: すずかん
last update publish date: 2026-10-13 12:00:35

「……どういうことですか?」

午後五時。

突然会議室に呼び出された私は、目の前に置かれた書類を見つめていた。

……あれ?

なんだろう、この空気。

上司は険しい顔をしているし、隣に座っている佐伯さんは今にも泣き出しそうだ。

もしかして、私、何かやらかした?

いやいや。

今日はまだ、そんな大きなミスをした覚えはない。

「桜庭さん。今回の取引先への誤送信について、説明してもらえるかな」

「……誤送信、ですか?」

「そうだ。社外秘の資料が、別の取引先に送られていた。先方から正式に抗議が来ている」

「えっ!?」

思わず声が裏返った。

社外秘の資料を誤送信?

それは確かに大問題だ。

でも。

「私、その案件の担当ではないんですけど……」

「佐伯さんから、最終確認を任されたと聞いているが?」

「……え?」

思わず隣を見る。

佐伯美咲さん。

私より二歳年下の後輩で、ふんわりとした雰囲気の可愛らしい女性だ。

普段は控えめで、おとなしい。

……ただし、私に対してだけは少々当たりが強い。

「佐伯さん……?」

声をかけると、彼女は悲しそうに眉を下げた。

「ごめんなさい、先輩……。私、ちゃんと確認してくださいってお願いしましたよね?」

「……うん?」

ちょっと待って。

何の話?

「私、先輩に最終チェックをお願いしたんです。でも、まさかそのまま送信されるなんて……」

「えっ? いや、待って待って!」

私は慌てて手を振った。

「私が佐伯さんから資料をもらったのって、送信したあとだよね?」

「……え?」

「ほら、昨日の夕方! 送っちゃったんですけど、ちょっと不安なので見てもらえませんかって!」

そうだ。

確かにそう言われた。

そもそも私は別案件を担当していて、佐伯さんの仕事には直接関わっていない。

ただ、彼女が困っているようだったから、少しだけ手伝ったのだ。

……ああ。

嫌な予感がする。

「先輩……ひどいです」

「……えっ?」

「私、そんなこと言ってません!」

佐伯さんの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。

……ええっ!?

泣きたいの、こっちなんだけど!?

「佐伯さん、落ち着いて! 私、責めてるわけじゃなくて……」

「私だって、先輩のこと信頼してたんです!」

「だから、そうじゃなくて……!」

「桜庭さん」

上司の低い声に、思わず口をつぐむ。

「後輩に責任を押しつけるのは感心しないな」

「……え?」

いやいやいや。

どうしてそうなるの!?

私は慌てて背筋を伸ばした。

「待ってください。送信履歴を確認していただければ、わかると思います。そもそも私は、その案件の送信権限を持っていません」

「しかし、最終確認には関わっていたんだろう?」

「それはそうですけど、送ったあとに相談されたんです!」

「言った、言わないの話をされても困るんだよ」

……ああ、もう!

どうして確認してくれないのだろう。

感情論ではなく、履歴を調べれば済む話なのに。

私はもう一度説明しようと口を開いた。

そのときだった。

「……あの、俺も呼ばれたんですけど」

会議室のドアが開いた。

入ってきたのは、瀬名伊織。

つい数時間前、私にミルクティーをくれた生意気な後輩だ。

「伊織くん!」

思わず顔が明るくなる。

そうだ。

伊織くんなら知っている。

昨日、佐伯さんが私に資料を渡してきたとき、彼はすぐ隣にいたのだから。

「伊織くん、昨日のこと覚えてるよね? 佐伯さんが私に資料を持ってきたとき!」

「ああ……」

伊織くんは、少しだけ眉を寄せた。

そして、佐伯さんを見る。

彼女は涙を浮かべたまま、じっと伊織くんを見つめていた。

「瀬名くん……私、そんなつもりじゃなかったのに……」

「……いや、ちょっと待ってくださいよ」

伊織くんは面倒くさそうに頭をかいた。

「俺、別にその案件の担当じゃないんで」

「……え?」

「二人がなんか話してたのは覚えてますけど、内容までは聞いてないっす」

……あれ?

そんなはずない。

確かに昨日、彼は隣で会話に入ってきた。

佐伯さんが帰ったあとも、私に「先輩ってほんとお人好しですよね」と笑っていたのだから。

「伊織くん、でも昨日……」

「いや、俺に言われても困りますって」

彼はあっさりと言った。

「俺、関係ないですし」

……関係ない。

その言葉が、妙に胸に引っかかった。

「それに、先輩って頼まれたら何でも引き受けるじゃないですか」

「……え?」

「だから今回も、ちゃんと確認せずに引き受けちゃったんじゃないですか?」

……は?

思わず伊織くんの顔を見た。

彼は悪びれる様子もなく、肩をすくめている。

「先輩、そういうとこあるし」

「…………」

……なるほど。

そういうことか。

私はようやく理解した。

伊織くんは、自分まで面倒なことに巻き込まれるのが嫌なのだ。

だから、私の味方をするつもりもない。

むしろ、私に責任を押しつけた方が楽なのだろう。

……ああ。

なんだか、急に悲しくなってきた。

佐伯さんが伊織くんを好きなことは、前から知っていた。

私と伊織くんが仲良くしているのを、面白く思っていないことも。

何度か嫌味を言われたことだってある。

だけど。

まさか、こんなことまでするなんて。

そして何より。

伊織くんが、こんなにも簡単に私を切り捨てるなんて。

「……そっか」

ぽつりと呟く。

「伊織くんは、そう思うんだね」

「……は?」

彼は少しだけ不思議そうな顔をした。

「いや、別に俺、先輩が悪いって言ってるわけじゃ……」

「うん。わかった」

私は小さく笑った。

これ以上、彼に何か言っても仕方ない。

だって。

助けるつもりのない人に、助けてほしいとお願いするほど、惨めなことはないから。

「桜庭さん」

上司が、重々しく口を開いた。

「今回の件は、会社としても重大な信用問題だ。君には相応の責任を取ってもらう必要がある」

「……責任、ですか?」

「自主退職も含めて、今後のことを考えてほしい」

「…………」

……え?

退職?

私が?

頭が真っ白になった。

毎日、一生懸命働いてきた。

誰かが困っていたら、できるだけ助けた。

残業だって引き受けたし、後輩のミスも何度もフォローしてきた。

仕事は好きだった。

忙しい日もあったけれど、やりがいだって感じていた。

それなのに。

たった一度、後輩の仕事を手伝っただけで。

こんなことになるなんて。

「……わかりました」

私はゆっくり顔を上げた。

「ただ、退職については今すぐお返事できません。まずは送信履歴と、当日のやり取りを確認していただけますか?」

上司が、少し驚いたように目を見開いた。

「……何?」

「私、やっていないことまで責任を取るつもりはありません」

自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

私は人と争うのが嫌いだ。

できれば誰とでも仲良くしたいし、嫌な空気になるのも苦手だ。

だけど。

だからといって、何でも受け入れられるわけじゃない。

「失礼します」

私は立ち上がり、深く頭を下げた。

そして、会議室を出ようとした。

「……先輩」

背後から伊織くんの声がした。

「そんな怒んなくてもよくないですか?」

……ああ。

この男、本当に。

「……伊織くん」

「はい?」

私は振り返って、にっこり笑った。

「今日の映画の約束、なしでいいかな?」

「……え?」

「ごめんね。もう行く気なくなっちゃった」

彼は一瞬、きょとんとした顔をした。

それから、少し不機嫌そうに眉を寄せる。

「……は? なんでそうなるんすか」

「うーん。なんでだろうね?」

「いや、意味わかんないんですけど」

「うん。私も!」

にこっと笑って、今度こそ会議室をあとにした。

……もう、本当に。

男って、なんなんだろう。

つい数時間前まで、伊織くんのことをちょっといいなと思っていた。

優しくされたら嬉しかったし、からかわれるのだって嫌いじゃなかった。

だけど今は。

彼の顔を見るだけで、なんだか疲れてしまう。

「……はあ」

廊下に出た瞬間、大きなため息がこぼれた。

十五年間片思いしている幼馴染には、重いと言われ。

ちょっと気になっていた後輩には、あっさり見捨てられ。

おまけに、大好きだった仕事まで失いそうになっている。

……えっと。

今日って、厄日か何か?

私はスマートフォンを取り出した。

すると、画面には一件の通知が届いていた。

『今日、店来れる?』

送り主の名前を見て、思わず頬が緩む。

……ああ、そっか。

私には、まだ彼がいる。

一年間、ずっと大切にしてきた男。

口が悪くて、自己中心的で、ちっとも素直じゃない。

だけど、私にとっては特別な存在だった。

「……会いたいな」

そう呟いて、私は返信を打った。

『今日ちょっと嫌なことあったから、会いに行ってもいい?泣』

……このときの私は、まだ知らなかった。

今日という最悪な一日の最後に、もうひとつ、とんでもない地獄が待っていることを。

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    昨日の紅茶も、お菓子も、美味しかった。 部屋に戻ってからは、ジェットバス付きの広々としたお風呂に浸かった。 ベッドに寝転んで、気になっていた小説を読んで。 眠くなったところで、そのまま眠った。 そして、今朝。 小春は、一人で海を見ている。 「なんで私、あんなに愛されたかったんだろうなあ」 波打ち際で、足を止めた。 好きになると、相手のことを考えるのが楽しかった。 何をしたら、喜ぶだろう。 疲れているなら、話を聞こう。 困っているなら、助けたい。 そうして自分から差し出したものが、たくさんあった。 でも。 いつの間にか、渡したあとの反応ばかり見ていた。 嬉しそうにしてくれただろうか。 迷惑ではなかっただろうか。 これで少しは、大事にしてくれるだろうか。 足りない気がして、また何かをした。 疲れていても。 本当は、寂しくても。 「……そりゃ、しんどいよね」 三人分だったのだ。 怜の言葉を気にして。 伊織の態度を考えて。 陽向の返事を待って。 その合間に仕事をして、自分の生活も回していた。 よくやっていたと思う。 ただ、もう一度同じことをしろと言われたら。 「……今は、無理」 小春は、即答した。 誰も聞いていなかったけれど。 もっと優しくすれば。 もっと理解すれば。 相手の望むとおりにできれば。 いつか、安心できると思っていた。 けれど。 一度合わせた予定は、次も合わせられると思われた。 無理をして笑った日は、大丈夫だったことになった。 寂しいのを飲み込んだら、その寂しさは誰にも伝わらなかった。 あのとき、本当は嫌だった。 今日は、私の話も聞いてほしかった。 お金も時間も、これ以上は苦しかった。 今なら、言葉にできる。 でも、その場では。 嫌われるかもしれないと思うと、言えなくなった。 代わりに、笑った。 わかった、と頷いた。 そのくせ、一人になってから悲しくなる。 「……私も、何してるんだろう」 砂の上に、視線を落とす。 喜んでほしかったのは、本当だ。 でも。 喜んでもらったあと、自分のことも見てほしかった。 いつもありがとう、とか。 無理してない、とか。

  • もう、男に尽くすのはやめる! 〜愛するのをやめたら、今さら3人の男たちに追いかけられました〜   第十六話 私のお金で、私を甘やかす

     ――そして、その頃。 小春は、沖縄にいた。「はあー……極楽、極楽」 朝の海に向かって、大きく伸びをする。 どこまでも続く青。 白い砂浜。 まだ少し涼しい風が、頬を撫でていく。「……一人って、こんなに楽しかったっけ」 思わず、笑ってしまった。 昨日も楽しかった。 一昨日も、楽しかった。 誰にも会っていないのに。 好きだとも、可愛いとも、言われていないのに。 朝起きただけで、なんだか気分がいい。 ……何これ。 今までの苦労は、何だったのだろう。 今回、小春が泊まっているのは、海の見える少しいいホテルだった。 少し、というか。 予約画面を三回見直したくらいには、いいホテルだ。 支払いには、陽向のバースデーのために貯めていたお金を使った。 あの子が喜んでくれるなら。 少しでも、自信につながるなら。 そう思って、仕事を増やしてまで貯めたお金。 それが今。 ふかふかのベッドと、海の見える部屋と、美味しい朝食に変わっている。「……めちゃくちゃ、いい使い道では?」 口にすると、ますますそう思えた。 朝は、ビュッフェ。 昼間は、部屋でごろごろ。 昨日は、楽しみにしていたアフタヌーンティーにも行った。 大きな窓から、午後の日差しが差し込むラウンジ。 案内されたソファには、淡い色のクッションが並んでいた。 人の話し声も、食器の触れ合う音も、ここではどこか遠い。 席に座っただけで、肩の力が抜けた。 そして。「……え、可愛い」 運ばれてきたものを見た瞬間。 小春は、背筋を伸ばした。 三段の銀色のスタンドではない。 持ち手のついた、濃い木目の小さな飾り棚。 四角く区切られた棚の中に、お菓子が一つずつ収まっている。 丸い飾りをのせた、淡い色のケーキ。 オレンジ色に透ける、小さなグラス。 白いクリームがくるりと絞られたタルト。 下の段には、鮮やかな青いデザートまで並んでいた。 ……何から食べればいいの。 全部、可愛い。 手前の黒いお皿には、こんがり焼けたスコーン。 細い脚のグラスには、白いクリームと濃い紫色の層が重なっている。 葉っぱの形をした、繊細なお菓子も添えられていた。 小春は、いったんスマホを取り出した。 正面から、一枚。 少し斜めから、もう一枚。 紅茶のポットも入れたくて、少しだ

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